熊本新町獅子とは

新町獅子の歴史

新町に生きる獅子舞

かつて、熊本市の藤崎八旛宮は熊本城の西隣の藤崎台にありました。

私達の先代達はその鳥居元として、
毎年同宮の秋季大祭に獅子舞を奉納してきました。

西南戦争で同宮が消失し、現在の井川淵町に移転した後も変わらず奉納し続けています。

新町獅子は、加藤清正が西暦1500年代終わりに近いころ熊本へ入国し治世を開始、壮大な規模で熊本城を完成させた1607年頃、熊本城築城と共に誕生したと言い伝えられています。

その後幕末か明治初期に、新町獅子は再び中断されました。
西南戦争さらには倒幕、王政復古の政治変革が関係していると思われます。

その後復活したのは、1883年(明治16年)頃で、当時はまだ「牡丹の舞」はなく、道往きの囃しだけでした。20世紀になると、また二度にわたる中断が起こりました。
明治末・大正初から昭和4年(1929年)までがその一つ目で、二つ目は太平洋戦争末期でした。

しかし、戦後いち早く新町一・二・三丁目合同による「新町獅子協会」を結成し、復活が実現します。

新町獅子の舞

「天拝」

新町獅子の舞には、「天拝」と「牡丹の舞」があります。
このうち「天拝」は、藤崎宮秋季例大祭の初日、藤崎八旛宮神前においてのみ舞うもので、極めて式楽的要素が強くこの「天拝」奉納こそが、藤崎宮神事の一環を担うことであり、新町獅子が祭りに参加する意義なのです。
「天拝」は江戸時代から存在していたと言い伝えられています。

「牡丹の舞」

1883年(明治16年)頃、熊本の役者によって、獅子舞が伝授され、これが「牡丹の舞」の原型となります。さらに、歌舞伎役者『初代・市川右団次』によって手直しされ「牡丹の舞」は明治期に完成し今日まで伝えられています。
新町獅子の舞が歌舞伎の影響を受けているのは、こうした事情によるものであります。

新町獅子舞は鼓鉦・笛・舞の調和で成り立つ

新町獅子舞は鉦(かね:銅鑼)と太鼓・笛によって支えられます。鉦の打音で舞が始まり、鉦の打音で舞手は動き始めるタイミングを計ります。舞手は獅子頭を持ち、胴着と呼ばれる赤・黄色の胴体の中に入っている訳ですから、獅子頭の口からと足元しか視界は確保できません。鉦の打音は舞の指揮者です。ただし鉦は太鼓とお互いにタイミングを合わせますし、笛の音に合わせる様に鉦・太鼓はリズムをを変えて行き、笛手は舞手の癖を知りテンポを変えて行きます。
要するに誰がリーダーかという事ではなく、お互いの間合を見て調和を計って行くのです。

「鉦(かね:銅鑼)」

鉦は尺五寸(45cm)の大きさの銅製の打楽器です。下部で固定する紅白紐を手で押さえて鳴りを調整します。バチの叩き方により豊かな音色が出るかどうかも熟練の技が必要となります。

「太鼓」

太鼓は3尺(90cm)吊り平太鼓。強い打音は舞を引き締めます。

「笛」

新町獅子舞で使用する笛は篠笛(しのぶえ)の八本調子。舞に彩りを与えます。
独特な音色で責音(セメ:甲高い音)を多用します。新町の昔からの住人たちはこの音色を聞くと祭りの季節を実感するそうです。地元一新小の子どもたちはこの音色を良く耳にしていて「地元の音」という感覚があります。